
韓国史上最悪のビル崩壊となった三豊百貨店事故(1995年6月29日午後5時57分)から今年で30年。行方不明者の母たちは今も「娘」を探し続けている。
イ・ギョンソンさん(当時22歳)は、メイクアップアーティストを夢見てソウルに上京し、三豊百貨店の化粧品売り場で働き始めて3カ月目に崩壊事故に遭った。遺体は見つからず、彼女の名前は「行方不明者」のリストに残り続けている。
母ホン・ヨンヒさん(76)はその日から30年、娘の遺体すら見つけられないまま、悲しみの中に生きている。娘の遺影と色あせたアルバムを手に、「娘は170cmあった。あの子が戻ってくる気がする」と語った。
事故当日、ニュース映像で百貨店が崩れ落ちる様子を見た家族はすぐに現場へ向かったが、会社や自治体は何も知らせてくれなかった。父親は50カ所以上の病院を回り、白布の下の遺体を一つひとつ確認したが、娘には出会えなかった。
その後、遺族らは百貨店の残骸が運ばれたゴミ埋立地を手で掘り起こしたが、成果はなかった。2年が経ったある日、「イ・ギョンソン」と記された骨壺を手渡されたが、DNA鑑定もされず、他人の遺骨と混ざった「身元不明の骨壺」だった。
ホン・ヨンヒさんは「早く何かを渡して帰らせようとする態度だった。謝罪する人は一人もいなかった」と憤る。人が集まる都市にいられなくなり、ホン・ヨンヒさんは山と川に囲まれた江原道春川市の山間部に移り住んだ。家の前を流れる北漢江には、身元不明の骨をまいて天道祭(仏教の弔い)も営んだ。
「うちの娘の墓はゴミ埋立地よ」。ホン・ヨンヒさんはそこに慰霊塔が建てられることを願っている。現在の慰霊塔は事故現場の瑞草洞でも、残骸が埋まった埋立地でもなく、良才市民の森の一角にひっそりと建てられている。
同じく行方不明となったチョン・チャンスクさん(当時23歳)の母チン・オクジャさんもまた、骨壺を手渡された遺族の一人。娘が好きだったビールや果物を手に、19日、ノウル公園を訪れた。涙を流しながら地面に向かって拝礼する姿は、まさに“30年間止まった時間”の証だった。
チャンスクさんはアパレル業界で働きながら、放送局のメイクチームを目指していた。崩壊事故で夢を絶たれ、母オクジャさんの人生もまた止まった。事故から5年後、夫も他界した。
「娘は身長168cmだった。今もヒールを履いて帰ってくる気がする」。娘の持ち物として手元に残るのは、ロッカールームに置かれたカバンと洋服だけだ。
オクジャさんは「夢に出てきても顔がいつもぼやけている。崩壊で顔が壊れたからかもしれない」と涙をこらえた。
30年経った今も、母たちは慰霊塔を墓のように訪れる。「命を失った人の痛みは、経験しないと分からない。二度とこんなことが起きないように、皆で記憶してほしい」と、母たちは声をそろえた。
三豊百貨店崩壊事故は、死者502人、負傷者937人、行方不明6人を出した、韓国史上最悪の単一事故とされる。
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