
「分かりません。ただ、そうしなければならない気がしました」
小説家ハン・ガンは「少年が来る」で、道庁に最後まで残った市民軍の証言をこう伝えている。敗北すると分かっていながら、なぜ残ったのかという問いに対する、生き残った人々の答えだった。ハン・ガンは「彼らが犠牲者だと思っていたのは私の誤解だった。彼らは犠牲者になることを望まなかったから、そこに残った」と書いた。
小説は1980年5月の光州を、過去の出来事として閉じ込めない。中学3年生で、戒厳軍が光州に入った夜、道庁に残り銃で撃たれて死んだ少年ドンホを「彼」ではなく「君」と呼び、薄れつつある光州を今日の読者の前に再び呼び出す。5・18は、国家暴力の前でも人間の尊厳を手放さなかった人々の、現在形の問いとして残っている。
韓国南西部・光州市周辺で1980年5月18日、民主化を求めるデモに軍が発砲するなどして少なくとも166人が死亡、73人が行方不明となった光州事件は今年、46周年を迎える。政界は今年も例年通り、再び光州を語っている。しかし、その言葉が光州の残した苦痛と人間の尊厳の重みをきちんと受け止めているのかは疑問だ。
先月の改憲論議の出発点は軽くなかった。戒厳の要件を強化し、憲法前文に5・18精神を盛り込むという趣旨だった。与野党が大枠で共感してきた事案でもあった。
問題はその進め方だった。
与党「共に民主党」が改憲論議を急ぐと、野党「国民の力」は「選挙用の拙速改憲」だと対抗した。憲法的価値として重く扱われるべき改憲論は、地方選挙と絡み、与野党の攻防の中で力を失った。
最大の激戦地であるソウルでは、5・18がより荒い攻防の言葉として呼び出された。「共に民主党」のソウル市長候補、チョン・ウォンオ氏は、過去の暴行前科を説明する過程で、事件の発端を5・18関連の口論だったと説明した。「国民の力」は「事件の本質は5・18論争ではなく、酒に酔った暴行だ」と対抗し、「共に民主党」は確定判決文を根拠に黒色宣伝だと反論し、告発で対抗した。
その後、論争は酒席の具体的な状況や刺激的な疑惑まで加わり、5・18の歴史的意味とは距離のある方向へ広がった。真実攻防の行方は法的・政治的判断の領域に残るとしても、この場面が示すことは明らかだ。5・18が歴史的省察の言葉ではなく、釈明と攻撃の素材として呼び出されたという事実だ。
「国民の力」の湖南(全羅道と光州を含む地域)行きも冷静に見る必要がある。党指導部は16日、国民の力の劣勢地である全羅北道での日程をこなした後、18日に光州で開かれる5・18民主化運動記念式にも出席する。保守政党の代表が光州を訪れ、湖南に向けたメッセージを出すこと自体は大きな意味がある。
しかし、一部湖南地域での公認なしと、1桁台にとどまる湖南支持率は、国民の力が依然として湖南で政治的基盤と信頼を十分に築けていないことを示している。
何より5・18が国家暴力に立ち向かった市民の抗争だったなら、光州の前で自由と民主主義を語る保守政党の言葉は、より重く責任あるものでなければならない。また、国民の力の湖南行きが真摯さを得るためには、非常戒厳事態の政治的責任を認め、その過ちと決別することから始めなければならない。
「共に民主党」も例外ではない。5月の光州を語る政党であるほど、権力の使い方をより慎重に振り返らなければならない。5・18は国家暴力に立ち向かい、市民が人権と民主主義、自由を守ろうとした抗争だった。その民主主義は、単に多数の意思を貫く原理ではなかった。国家権力が市民の尊厳の上に君臨することはできないという宣言であり、いかなる権力も手続きと人権を超えることはできないという要求だった。
その点で、「共に民主党」の政治も5・18の名の前で完全に自由ではない。国会内では、巨大議席を前面に出したスピード重視と一方的処理が見慣れた場面になった。ねつ造起訴(公訴取り消し)特別検察法や司法制度改革、改憲論議のように、権力機関と憲政秩序の根幹に関わる事案まで、十分な熟議よりも速度戦の対象とし、制度は熟議の場ではなく陣営対決の舞台になった。
一方は現在の権力を抑制できず、もう一方は過去の責任を直視できずにいる。「共に民主党」は光州を語りながらも、民主主義を多数議席の力で押し通す方法に慣れ、「国民の力」は光州を訪れながらも、戒厳という川の前でためらっている。公権力の暴力の前でも、市民が最後まで守ろうとしたのは人間の尊厳と民主主義だった。その精神を継承すると言う政治なら、光州を選挙の矛と盾として消費することからやめなければならない。【news1 ハン・サンヒ記者】
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