
東京・新大久保の「チャングム鍼灸院」は、東洋医学とリハビリを融合させた独自の手法で患者に向き合う。大明龍八(おおあけ・りゅうや)院長は韓国大邱出身。東洋医学の家系に生まれ、日本で資格を取得した。鍼灸師としての臨床経験に加え、スポーツトレーナーや整体指導者、オステオパシー指導員など多分野にわたる知見を持ち、脳梗塞や脊髄損傷などのリハビリ分野にも取り組む。来日からまもなく40年。成功、拡大、崩壊を経て打ち立てた治療哲学について、大明院長に語ってもらった。【KOREA WAVE編集部 生島マキ】
――まず、日本に来たきっかけから教えてください。
「韓国の大邱から来たのは1988年ですね。ちょうどソウル・オリンピックの年で、学生時代に入った兵役を終えてすぐ日本に来ました。もともとはアメリカに行こうと思っていましたが、そのころは日本がバブルで、一番景気がいい時代だったんですよ。“今は日本が一番いい”という流れがあって、それで選びました。当時、日本は『夢を見られる国』だったんです。海外から見れば、経済的にも文化的にも、圧倒的な存在感がありましたから」
――そこから、どのようにして今の仕事につながったのですか?
「最初からこの道に進もうと決めていました。韓国でもずっと東洋医学をやってきた家系で育ったので、そこは揺るがなかったんですけど、日本に来たのは僕だけです。日本語を勉強して、学校に行って、資格を取って。それで1991年に六本木でスタートしました。当時の日本で資格を取るのは大変でしたが、がんばりました」
――最初が六本木というのも、かなり戦略的ですね。
「一番盛り上がっている街だったので。お金が動いていて、人が集まっていた。憧れの街でしたし、イメージもよかった。こういう仕事って、安い場所では成り立たないんですよ。逆に言うと、『高い場所だからこそ成立する仕事』なんです。田舎では2000円の施術がはやるかもしれませんが、六本木では1万円の施術が人気でしょう? 今だったら銀座にクリニックを構えるのがいいのかもしれないですが、当時は六本木でした」

――現在は新大久保です。どういうきっかけでしたか?
「六本木から青山に移りました。その時の建物に物理的な問題が出てしまって、一時的に新大久保へ移りました。知り合いも多かったので。でも当時の新大久保って、今みたいな街じゃなくて、ちょっと怪しい街、歓楽街のイメージもありました。正直、長くやるつもりはなかったです。今でこそ『Kカルチャー』の街として知られていますが、当時はまったく違う顔でした。でも、その偶然によって形を変えていくことになりました」
――結果的に、長く続く拠点になったということでしょうか?
「そうなんですよ。六本木や青山で診ていた患者さんたちが、そのままついてきてくれて、気づいたらもう18年ぐらいに。並行して北千住エリアにもリハビリセンタ―を作り、行ったり来たりしました。そこで気づいたのは、顧客は『場所』ではなく『人』につくということです」
――新しい土地で何か印象的な出来事はありましたか?
「大きな出来事がありました。日本のあるスターとの出会いです。2015年くらいでしたでしょうか。患者さんの紹介で知り合って、リハビリをサポートすることになりました。最初は本当に大変で、3人、4人で支えながら来てもらって。でも治療を続けていくうちに回復しました」
――そのスターは大病と闘いながら、ステ―ジ復帰を目指してリハビリを続けていました。
「はい、すごくがんばっていました。歌うために、また家族にステージでかっこいい姿を見せるために、激痛を伴うリハビリにも前向きに取り組んでいました」
「その後、鍼灸院の予約が取れないほど忙しくなり、患者さんの体ばかり診るようになりました。しばらくして、寝不足と疲労が重なってしまい、仕事でシンガポ―ルに行った際、空港で意識を失い、倒れてしまった。覚えているのは税関でパスポートを出したところまで。そこから1年4カ月、意識が戻りませんでした」
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