2024 年 4月 20日 (土)
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[KWレポート] 米国はなぜ日本の半導体をダメにしたのか。そして韓国は?(3)

為替と報復……日本メーカーが凋落

半導体業界との会議に臨むバイデン米大統領©MONEY TODAY

スマートフォンから自動車まで、あらゆる電子機器に内蔵されている半導体は「産業のコメ」と呼ばれます。私たちの生活に欠かせないこの半導体をめぐり、米国と韓国が今、ギクシャクしています。日本も加えた3カ国の思惑をわかりやすく解説します。(シリーズ3/計6回)

米国で1981年に大統領に就任したレーガン氏は、日本の半導体企業によるダンピングが米企業の競争力を低下させている、として圧力をかけた。米メディアも日本企業の低価格攻勢を「第二の真珠湾攻撃」にたとえ、米政府の強硬姿勢を後押しした。

インテルがDRAM事業を放棄した直後の1985年6月14日、米国半導体工業会(SIA)は米通商代表部(USTR)に、日本製半導体をダンピング違反として提訴した。同24日にはマイクロンが日本のNEC、日立、三菱、東芝などを訴えたことで「半導体戦争」が始まった。

レーガン政権は米国の貿易赤字の解消に向け、1985年9月、ニューヨークのプラザホテルで日独英仏とともに先進5カ国(G5)の会議を開いた。この席で、米国は円高やマルク高、ドル安になるよう要請し、各国が協調介入を実施することになった。米国の力によって実現したこの「プラザ合意」を通じて、日本の半導体の価格競争力が急激に落ちた。

さらに1986年には、米政府と日本の半導体企業との間の協定(いわゆるサスペンション協定)と、日米政府間の半導体貿易に関する協定が進められた。それによると、日本の半導体メーカーは米国に生産原価を公開し、米国メーカーの日本国内でのシェアを20%まで高めることとなった。これは第一次日米半導体協定と呼ばれ、その後5年間維持された。

米国は1987年には、日本政府が日米半導体協定を守らないとして、スーパー301条(通商法301条)を通じて報復措置を取った。1991年には第二次日米半導体協定が結ばれ、1996年まで続くことになった。

結局、1986~96年の10年間、米国の為替政策と報復措置などにより、日本の半導体はダメになってしまった。

この結果、インテルは1997年、世界トップの半導体企業の座を取り戻し、現在までその王座を守っている。インテルに続き、モトローラ、テキサス・インスツルメンツ(TI)など米企業が上位に位置した。韓国のサムスン電子も、その年の半導体売上7位にランクインするようになった。

2020年現在、世界の半導体売上トップ10に、日本企業は見当たらない。東芝メモリー事業部から社名を変えたキオクシアが12位にとどまっているだけだ。

(つづく)

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