いつの間にか「日本の天下」
スマートフォンから自動車まで、あらゆる電子機器に内蔵されている半導体は「産業のコメ」と呼ばれます。私たちの生活に欠かせないこの半導体をめぐり、米国と韓国が今、ギクシャクしています。日本も加えた3カ国の思惑をわかりやすく解説します。(シリーズ2/計6回)
半導体の特許開放は、開発企業である米通信大手AT&Tが独占禁止法違反に問われるのを恐れ、1950年代初旬に有料公開に踏み切った。日本企業は同社から基本特許を買い、製法特許やノウハウなどは技術提携によってアメリカ・ラジオ会社(RCA)などから手に入れた。問題はこのあと起きた。
半導体ロイヤルティー(使用料)は米企業にとって「甘い毒が入った酒」のようなものだ。これに酔っているうちに、日本への技術流出が加速し、その成長が米国の半導体産業を“食い荒らす”事態にまで至ったのだ。
米国の半導体技術を導入したソニー、シャープなどは、トランジスターラジオや電子計算機といった、当時の先端電子製品の道を開き、新しい市場を作り出した。1980年代には、メモリー半導体市場全体で日本企業の占める割合が80%に達し、米企業の生存を脅かした。NECを筆頭に、東芝、日立、富士通、三菱、松下(現パナソニック)といった企業は、DRAMなど世界のメモリー半導体市場を総なめにした。
DRAMの先駆けだったインテルは1984年の段階でDRAMを諦め、CPU(中央処理装置)に事業を転換した。日本に特許を提供したRCAは、1986年に閉鎖した。こうした危機感が米国内で高まり、日本の半導体企業を規制するきっかけとなった。
半導体市場調査会社のICインサイツによると、1990年当時、NECをはじめ東芝、日立、富士通、三菱、松下の日本企業6社がDRAM市場の80%を占めていた。トップ10のうち、米企業はインテル、テキサス・インスツルメンツ(TI)、モトローラの3社にとどまった。
1947年のトランジスター開発以後、1980年代を迎えるまで、半導体市場は米企業が君臨していた。それがいつの間にか「日本の天下」となった――。1981年に発足したレーガン政権はこの事実に大きな危機感を抱いた。
(つづく)