韓国の近現代史の真っ只中にあった青瓦台(大統領府)。その70年の歴史も、ユン・ソンニョル(尹錫悦)政権発足とともに消えることになるかもしれない。
「青い瓦屋根」の意味を持つ青瓦台。国家記録院によると、朝鮮太祖が現在の青瓦台の所在地を、景福宮(キョンボククン)の庭園として使っていたのがそのルーツとされる。その後、演舞場、科挙試験場などが建てられ、「景武台(キョンムデ)」という別称がつけられた。
1592年の壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際、景福宮とともに廃墟となり、高宗の時代にかなりの部分が復元された。日本の植民地時代は朝鮮総督府官邸として使用されたこともあった。
光復(日本の植民地支配からの解放)後は、在韓米軍司令官のホッジ(John R. Hodge)中将が総督官邸を使用した。1948年8月、大韓民国政府の樹立とともに当時のイ・スンマン(李承晩)大統領が「梨花荘(イファジャン)」から大統領官邸を現在の場所に移し、その時に「景武台(キョンムデ)」と名づけられた。
イ・スンマン大統領を退陣させた4・19革命で政権を受け継いだユン・ボソン(尹潽善)大統領は、前任者の独裁イメージを消すために、1961年1月1日付で現在の「青瓦台」に改名し、公式の名前として使い始めた。
以後、パク・チョンヒ(朴正煕)、チェ・ギュハ(崔圭夏)、チョン・ドゥファン(全斗煥)、ノ・テウ(盧泰愚)、キム・ヨンサム(金泳三)、イ・ミョンバク(李明博)、パク・クネ(朴槿恵)の歴代大統領をはじめ、現在のムン・ジェイン(文在寅)氏まで10人が青瓦台を守り、名実共に「権力の心臓」として位置づけられてきた。
大統領府は73年という近現代史の過程の中で屈曲した歴史も秘めている。
パク・チョンヒ政権時代の1968年1月21日、キム・シンジョ(金新朝)をはじめとする北朝鮮の武装隊員31人が青瓦台の裏山のルートからパク・チョンヒ氏暗殺を試みた「青瓦台襲撃未遂事件」が代表例だ。キム・シンジョ生け捕りのプロセスで生じた銃弾の跡は、現在、北岳山(プガクサン)一帯の松の木にそのまま刻まれている。
同事件を契機に、パク・チョンヒ大統領がそれまで4~5月に主宰してきた青瓦台を開放する行事は中断された。大統領府裏手の北岳山道をはじめ、大統領府周辺地域の道も全面的に統制されるようになった。
大統領府内で起きたことではないが、1979年10月26日、パク・チョンヒ大統領が大統領府近くの宮井洞(クンジョンドン)、現在の孝子洞(ヒョジャドン)一帯の安家で、当時のキム・ジェギュ(金載圭)中央情報部(KCIA)部長の銃弾によって死亡するという悲劇的な事件もあった。キム・ヨンサム文民政権時代、宮井洞の安家は取り壊され、その場所にムグンファ園が造成された。
©NEWSIS