
「イ・ジェミョンをなぜ怖がるのか。彼が大統領になってはいけないという理由は何か。彼は地方出身で、中小企業の味方で、弱者の味方で、困窮する庶民階層の味方だからだ」
韓国大統領に就任したイ・ジェミョン(李在明)氏が、選挙戦最終盤の遊説で訴えた言葉だ。
地方の貧困家庭に生まれ、少年工(未成年労働者)・人権派弁護士・市民運動家を経て国家元首の座に上り詰めたその劇的な半生が、改めて注目を集めている。
◇貧困からの出発、13歳で少年工に
イ・ジェミョン氏は1964年12月、慶尚北道安東市の山間の村で7人兄妹の五男として生まれた(実際の出生は1963年ころとされる)。1976年、小学校卒業後は家族9人で京畿道城南市の月極アパートに移住し、極貧生活を送った。
中学には進学せず、13歳で法的には就労不可のまま名前を借りて工場に入った。金属板を切る作業で手を切り、皮革プレス作業で左腕を永久に曲げたままの障害を負い、ペンキ工場では嗅覚を失った。過酷な環境に加え、工場先輩らの娯楽として無理やりボクシング試合に参加させられることもあった。
◇学業への執念と法学部進学
逆境に屈せず、工場労働と並行して独学を続け、中卒・高卒の検定試験に合格。全国順位で3000位内に入る学力で大学入試を突破し、1982年に中央大学法学部へ全額奨学金で入学した。
夜間に働き、バスで寝過ごして終点に着く生活の中でも、机に画鋲を撒いて睡魔に抗うなど、並外れた努力があったという。大学では使用されていなかった校章入りの制服を着て入学式に出席するなど、苦学生の誇りをにじませた。
◇司法試験合格と人権弁護士としての道
1986年、第28回司法試験に合格。検事・判事の道もあったが、「貧しい民衆のために制度内で闘う」と決意し、1989年に城南市で弁護士事務所を開業。強制立ち退きにあった住民や、地方から上京した労働者の支援に尽力した。
1990年代には分譲住宅の不正疑惑や病院閉鎖問題に対して市民運動を展開。2004年には「城南市立医療院設立条例案」を市議会に提出したが、47秒で否決され、教会の地下で涙を流した。この体験が「世の中が変わらないなら自ら変える」と政治決意を固める契機となった。
◇地方行政での実績、国政への道
2006年と2008年の選挙に落選後、2010年に城南市長に初当選。財政赤字に苦しむ市において、全国初のモラトリアム宣言をし、約3年で再建を果たした。さらに青年手当・制服支援・産後ケアなどの無償福祉政策で高い支持を集めた。
その後、2014年に市長再選、2018年に京畿道知事へ、さらに2022年と2024年に国会議員当選、2022年8月と2024年8月には「共に民主党」代表に選出された。
◇3度目の挑戦で大統領に
2025年6月3日、3度目の挑戦でついに大統領選に勝利した。過去最多の得票を記録し、「地方出身・庶民派・社会的弱者の代弁者」というレッテルを自らのシンボルに変え、国家の最高位に登りつめた。
新大統領は、これまでの歩みを通じて「脱落しない社会、すべての国民の最低限の暮らしが保障される国家」の実現を志すと繰り返し訴えてきた。今後の国家運営に、国内外の注目が集まっている。
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