
朝鮮戦争のさなか、民家に突如現れた兵士が、懐中電灯の強い光を住民に浴びせながら迫っている。「お前はどちらの側なのか」。つまり「国軍か人民軍か」――作家イ・チョンジュンの短編小説『噂の壁』にはこんなシーンが登場する。「自分の側」でない者は即座に処刑される極限の時代を象徴する描写だ。
こうした暗い時代の記憶が、昨今の“主敵論争”と重なって見える。
ユン・ソンニョル(尹錫悦)政権に代わるイ・ジェミョン(李在明)政権下で開かれた国務委員(閣僚)候補者に対する国会人事聴聞会では「北朝鮮は我々の主敵か否か」が繰り返し問いかけられた。
候補者の回答は分かれた。
北朝鮮は明らかな“脅威”だが、同時に対話と協力の相手でもあるため「主敵」とは言い切れないとする者、例えば、チョン・ドンヨン(鄭東泳)氏。あるいは、主敵という用語はすでに20~30年前のものであり、いま再び持ち出すべきではないと反問する者、例えば、クォン・オウル(権五乙)氏。
これに対し、保守系野党「国民の力」は強く反発し、一部は聴聞会場から集団退場する騒ぎとなった。結局、キム・ヨンフン候補者は「北朝鮮は主敵である」と立場を変えざるを得なかった。
国務委員の安全保障観を問うことは当然だ。しかし、急速に変化する国際秩序のなか、南北関係を単純な一語で整理することはもはや不可能に近い。北朝鮮は現在、ロシアとは軍事同盟レベルで接近し、疎遠だった中国との関係も修復しつつある。米中露という大国のパワーゲームのなか、朝鮮半島の問題はもはや南北間の問題だけではない。
加えて、トランプ米大統領は再び北朝鮮に対話のシグナルを送り始めている。
国務委員に求められるのは強固な安保意識だけではない。「主敵かどうか」という二元的なフレームで安全保障観をはかろうとすれば、その代償は結局、われわれの社会に跳ね返る。
相手を「敵」か「味方」かのどちらかに分類しようとする問いが社会を覆う時、我々が見失ってはならないのは、その問いそのものが持つ危うさである。
政治や外交を“敵対”と“忠誠”の二者択一に還元してしまえば、多様性も、柔軟性も、対話の可能性もすべて失われてしまうだろう。【news1 イム・ヨイク記者】
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