「ベイビー・ブローカー」は「万引き家族」とともに是枝監督の「疑似家族2部作」を成す。
「万引き家族」が児童虐待と養育を主題に展開する作品だとすれば、「ベイビー・ブローカー」はベビーボックスを主題に、家族から捨てられた人生を寄せ集めながら展開していく。
この二つの映画は非常に似ているところがある半面、完全に異なる側面もある。
捨てられた人々、彼ら彼女らが集まった疑似家族、人を殺した女、警察に語らせる社会通念……。結局、家族になれず散り散りばらばらになる状況などは共通する点だ。
このように同じ素材を使ってはいるが、演出方式とメッセージの内容、メッセージを伝えるプロセスは明らかに違う。「ベイビー・ブローカー」を「万引き家族」と比べると、相対的に完成度が低く、重みに欠ける作品という点から判断すれば、是枝監督の家族映画の世界がまだ「万引き家族」を越えていないという印象を与える。
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確実に言えるのは、「ベイビー・ブローカー」に対するこのような指摘はすべて、是枝監督の映画であるからこそ、受けるべき批判だという点だ。
彼が過去10編余りの作品を通じて見せてきた最高水準の脚本や演出と比較すれば物足りない点があるということであり、この映画そのものが水準以下だとは言えない。
他の平凡な映画監督の作品だとすると「ベイビー・ブローカー」レベルの映画は、その監督の最高傑作と言えるほど優れた作品だ。
是枝監督特有の人間に対する愛情のこもった視線は、彼の映画の中でも、特に「ベイビー・ブローカー」には深く染み込んでいる。その一方で、このような人間が、気の毒だからといって人生を楽観させるわけではないという思慮深さが相変わらず込められている。
何よりも「ベイビー・ブローカー」の中の人々には自己憐憫がほとんどない。誰でも「ベイビー・ブローカー」を批判できるだろうが、この映画を否定することは難しいだろう。
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「ベイビー・ブローカー」には忘れられない場面が一つある。
後半部分でソヨンが、部屋で横になっているサンヒョン、ドンス、ウソン、ヘジンに対し、次々と「生まれてきてくれて、ありがとう」と話す場面だ。
それとなく遠まわしに映画全体を貫いている言葉だ。
このように直接的なメッセージが込められた台詞は是枝監督の以前の映画では見られなかった。是枝監督も、いままでの自分の方向性とは相反する台詞だということを知らないはずはない。それを知りながらも、あえてこのような台詞を入れたのは、それだけこのメッセージが切実に感じられたのだと思う。
これは「万引き家族」の祥太とゆりに、「海街diary」の浅野に、「そして父になる」の慶多と琉晴に、「誰も知らない」の明とゆきに、必ず伝えたかった言葉なのかもしれない。
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